AI と学問
高橋 可愛
Journal of Students Inquiry Volume3 Issue 1
近年、近年、人工知能の発展は目覚ましい速度で進み、その影響力は私たちの生活のあらゆる面に及
んでいる。AI の発展により、知識は不要になるという声も聞かれる。私たち人間は,人工知能の存在
をどう受け止めれば良いのか。 AI が人間を凌駕する可能性のある時代において、その答えを見つける
ために、人間とは何か、人間と AI の特性を把握し、AI 時代における学問の必要性をもとに考察してい
く。
キーワード:AI, 文明, 学問
人工知能研究者のレイ・カーツワイルは、人工知能が人間の能力を越えるシンギュラリティに至ると、人間生活は後戻りできないほど変容すると主張する。また、一部の人達は人工知能が人類にとって危険な存在になると予想する。スティーブン・ホーキングは「完全な人工知能の開発は人類の終わりをもたらす可能性がある」(注1)とし、イーロン・マスクも「AIは決して逃れられない不滅の独裁者である」(注2)と懸念する。
私たち人間は,人工知能の存在をどう受け止めれば良いのか。 AIが人間を凌駕する可能性のある時代において、その答えを見つけるために、人間とは何か、人間とAIの特性を把握し、AI時代における学問の必要性をもとに考察していく。
〈人間とは何か〉について、アリストテレスの「人間はポリス的動物である」やパスカルの「人間は考える葦である」など、多くの生物学者や哲学者、歴史学者によって、古代ギリシアの時代から現在に至るまで繰り返し問い続けられてきた。だが、未来永劫正しい答えは見つからない議論である。それでもなお、〈人間とは何か〉と問い続けている。なぜこの問いにいつの時代もぶつかり議論してきたのだろうか。私は「問い続けるこの姿勢こそが人間の特性を表しているのではないか」と考え、この特性について考察した。
〈人間とは何か〉を問い続けた学者の一人に、植物学者リンネがいる。彼は人間に対して 「Homo sapiens」という学名を与えた。Homo は名詞「人」、sapiens は形容詞「知性のある」の意であり、日本語では「英知人」とも訳される。 人類の進化過程において、現代の人類と異なる段階に対して、「Homo habilis」(器用人)、「Homo erectus」 (直立人)などの学名が与えられている。そうした過去の人類と対比して現在の人類を示すのがHomo sapiensである。つまり、「すべての現代の人類は知性もつものである」ということができる。そして、「問い続けるこの姿勢こそが人間の特性を表しているのではないか」は人間の知性の部分となりうるだろう。
では、形容詞 sapiens の「知性」とはどういうことか。ここで、AIに名付けられている「知能」と比較して考えたい。「知性」と「知能」という二つの熟語は、非常に似通っているように見え、しばしば混同して議論がなされているように思える。同じ「知」という漢字が使われているが、異なる熟語であり、微妙な違いの印象を受ける。「知性」とは、「人間の持つ思考・判断の能力。感情や意志に対して、特に高度な抽象的・概念的な認識能力」である。「あの人は知性豊かな人だ」や「知性を磨く」のように使われている。一方「知能」とは、「思考し、判断する能力。頭のはたらき」である。「イルカは知能の高い動物だ」や「子供の知能を高める」のように人間と動物どちらにも使われている。また、田坂広志の著書『知性を磨く』において、知性と知能の違いについて、「知能とは、答えの有る問いに対して、早く正しい答えを見出す能力のこと。知性とは、答えのない問いの答えを探し続ける能力である。」 (注3) と述べている。
二つの熟語の辞書の意味や真の意味の違いはどう異なるものか分かりかねるので、やはり似通った点も多い。そのため科学的な観点から、知性と知能のそれぞれの思考と能力について、考察していく。
まず、「思考」という部分について、「収束的思考」、「拡散的思考」という人間の思考にみられる二つの側面を表している、アメリカの心理学者ジョイ・ギルフォードが提唱した概念がある。「収束的思考」とは、ある特定の問題を解決するための思考で、一つの最適な解に早く辿り着くことができる。例えば、12×12は必ず144という一つの答えがあり、正解を導き出す方法は筆算や線を使ったインド式の方法など複数存在しているが、最終的には一つの答えに収束する。「拡散的思考」とは、決まった問題を的確に早く解決するというより、新しい発想を無数かつ自由に広げ新しいものを生み出していく思考である。これは、芸術作品の創作やアイディアの発案など創造性に関わっている。
人工「知能」(AI)は正解のあるものを求めるので、「収束的思考」が得意である。例えば、ChatGPTなどのAIに質問をすると、その質問に適切な回答が一瞬で返ってくる。先ほど述べた田坂広志の「知能」の意味を踏まえると、「収束的思考」には「知能」が使われているといえる。
対して人間は、「収束的思考」と「拡散的思考」をどちらも行う。「拡散的思考」には、「知性」が使われており、人間は「知性」と「知能」両方を持つと言えることができるだろう。既存の商品やサービスにない特長を生み出すためには拡散的思考が必要で、アイディアを一つにまとめる役割が収束的思考となる。拡散的思考だけではアイディアがまとまらず、収束的思考だけでは新しい発想は生まれない。両方の思考により、新しいアイディアが形となってこの世に生まれ、革命的・斬新的な技術や商品が誕生する。アイディアは、技術、そして文明をも生み出してきた。 AIとは異なり、どちらの思考も行う部分は人間の特性である。
次に、「能力」の部分について脳科学の観点から考察する。人間の脳は、次に何が来るかの外界の現象を予測し、符号化する、そして予測との誤差があった場合、予測の符号化を修正する「統計学習」を無意識に行っている。統計学習は本人の自覚がなくとも、脳に潜在記憶としてストックされ、私たちの知性や行動に影響を与えている。例えば、ある道を歩いていて曲がり角で人とぶつかるという不確実なことが起こったとき、次は気をつけようと思うはずだ。始めは人とぶつかる可能性が0%だったが、この出来事が起きたことによりその確率は上がる。このように、私にもわかりやすく(全人類もそうであろう)自覚のある例を出したが、統計学習を繰り返していくことで、情報を予測しにくいという「不確実性」を下げることができる。つまり、社会環境の中で危険を適切に察知しながら、安心して生きていけるようになる。
しかし、人間の脳は理解しきった、つまり不確実性が下がりきった情報に対して興味を示さなくなる。いわゆる『飽き』の状態に入った脳は、あえてあやふやで不確かな情報を探し始める。このとき脳は、「不確実性を下げたい(安心していきたい)」という願望と、「不確実性を上げたい(あいまいで不確かな情報が欲しい)」という願望が同時に存在する。2つの願望は相反しながらも引き合って「ゆらぎ」を生み出す。この「ゆらぎ」は、脳で無意識に行われている統計学習の予測にズレを生み出し、私たちは予想外なこととして捉え、その予想外なことを私たちは「創造性」として捉えている。「ゆらぎ」は、私たちの個性や創造性、才能に多大な影響を与えている。
人間は、人間に特有な二つの思考「収束的思考(知能)」と「拡散的思考(知性)」を使い、無意識のゆらぎにより、人間の個性や創造性を生む。このように脳科学の点から考察してみると、知性と統計学習の関係を示すことが出来る。
この知性と学習の部分について、冒頭の〈人間とは何か〉なぜ問い続けるのかの関係性について、考えていきたい。
問い続ける人間とAIとの異なる点に、まず社会性がある。人間には社会性という能力が非常に発達していると言われている。「society」を「人間交際」と訳した福澤諭吉は「社会」や「文明」について以下のように述べている。
「「元来、人類は相交るを以て其性とす。独歩孤立するときは其才智発生するに由なし。家族相集るも未だ人間の交際を尽すに足らず。世間相交り人民相触れ,その交際愈広くその法愈整うに従て,人情愈和し知識愈開くべし。文明とは英語にて「シウヰリゼイション」と云う。即ち羅甸語の「シウヰタス」より来りしものにて,国と云う義なり。故に文明とは人間交際の次第に改りて良き方に赴く有様を形容したる語にて,野蛮無法の独立に反し一国の体裁を成すと云う義なり」(注4)
人間にとって、「人間交際」は本性であり、家族が集まってもまだ人間の交際を果たしたとはいえない。様々な人と互いに交わることが交際であり、それを経て、最終的に才智を発生させることができる。文明とは、人間交際が次第に改善されて良い方へ赴く有様を形容した言葉である。つまり、文明とは、交際を本性に持つ人間同士の交際の増加により、才智の発達させることである。
上記のことと、2.人間の知能と知性で述べたことを整理すると、「不確実性を上げたい、下げたい」という脳の願望「ゆらぎ」を求めるが故に交際し、そのゆらぎの力と収束的思考と拡散的思考を用いながら、交際を行うことで、文明を発達させてきたと言えるのではないだろうか。人間交際により、文明が発達することについて議論してきたが、果たしてどのような交際が文明を発達させたのだろうか。福澤は学問を通した人間交際を行うことを考えているのではないかと私は思う。
なぜならば、福澤は学問の方法について次のように述べている。
「すなわち視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書、演説はもって智見を散ずるの術なり。」(注5)
これと、今まで論じたことをもとに、学問には3つの段階があると考えた。最初に、観察、推測、読書は知識を集める方法である。これは既知のもの、正しいの答えを求める過程「学習」にあたる。つまり、「答えの有る問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力「知能」を高める過程といえる。次に、談話は、学習を通して学んだことを交換する「学習」の場でもあるが、それと同時に答えが未知なる問いについての答えを考え、双方向の会話を通して議論していく「学問」場でもある。つまり、談話とは人間交際を通して、「答えない問い」の答えを探し続ける能力「知性」を高めていく場面である。この過程は非常に重要である。なぜなら、談話を通して、アイディアをたくさん生み出す「拡散的思考」、アイディアを一つにまとめる「収束的思考」が使われる。先ほども述べた通り、拡散的思考だけではアイディアがまとまらず、収束的思考だけでは新しい発想は生まれない。これにより新しい知識、技術が生まれる。最後に、著書、演説は己の知識を人々に広げる。己の知識を獲得するには、読書などの学習により知能を高め、他者との交際、談話により学問を行う必要がある。その過程で得た革新的なアイディア、知識を広める。多くの人々がこれらの過程を繰り返すことで、文明が発達してきたのではないのか。
学問を行っているのは、当然ながら人間のみである。そして、ときに人間は脳科学など人間自体を学問の対象として扱っている。人間以外の生物は、生物学などの学問の対象になるが、彼らが主体的に学問を行うことはない。このような観点から、「知性」という抽象的な概念を変換すると、人間は、「生まれながらにして学問を行うもの」と言い換えられる。だからこそ、学問を通した人間交際を行うことで、文明を発達させるという本質は、AIが普及した社会においても変わることはない。
文明を発達させるという観点でも学問は重要だが、AI時代にも学問が重要であるのか。福澤はやはり、「重要である」と答えるに違いない。どの時代にも学問は私たちの隣にあり、学問は次のように他の観点から(この段落の最後に説明する)も必要であるといえる。
技術革新によりChatGPTのようなチャット型AIが、さらに発展し普及すれば、歴史の年号や人物名、数学の公式など知識に関することは全てリアルタイムで教えてくれるようになる。その便利なAIをめぐり、教育についての議論をSNSやメディアで、よく耳にする。その一つに、『詰め込み教育』についての賛否両論の意見が飛び交う。
しかし、それは単なる暴論である。なぜなら、『詰め込み教育』の知識を詰め込むことに問題はなく、ただ知識を集積しているだけで、指示に従うなど自分の頭で思考することを放棄している点に問題があると考えるからである。詰め込み教育は、講義を通して生徒は知識を得る。これは正しい答えを求めるのみの「学習」にあたる。未知の答えに対して思考する過程は行われていないのが「詰め込み教育」だ。つまり、自分で考えることを放棄しているといえる。しかしながら、読書、観察、教育においては講義を通して知識を得なければ、学問の過程の談話を行うことができないことを留意しなくてはいけない。また、「AIは全ての知識を教えてくれるから暗記の必要はない」という意見もよく耳にする。しかし、教えてもらいたい知識さえ、学習を行い暗記しなければ、教えてもらいたいという願望さえ湧かないのではないのだろか。また暗記をしておかなければ、「学習で得た知識をもとに思考する学問」を行うことができないだろう。
先ほど述べた通り、我々は、生まれながれにして知性を持つがゆえ学問を行う者である。その我々に、福澤諭吉は無目的の学問を薦めている。「兎に角に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却て仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。左ればと云て只迂闊に本ばかり見て居るのは最も宜よろしくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を喰い好い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。」(注6)
また、福澤はまだ海外を知らない頃にオランダ語を長崎で勉強したり、咸臨丸の司令官に直談判して従僕として渡米したりした。鋭い先見の明を持つので、将来に関する目標や大まかな目的のために海外へ学びに行ったのかもしれないが、それよりも、面白そうだと思う知的好奇心、そしてそこから生まれる実行力、その精神が福澤を動かしていったのではないだろうか。目的を持たず、知的好奇心に従い行動する精神は、脳の願望「ゆらぎ」から生まれ、創造性を生み出し、文明の成長へと導く。つまり、そのような精神は学問を行う上で重要であると私は考える。
AIが発達した現在、知的好奇心の赴くまま学問を行う利便性は向上した。例えば、米国の教育サービスKhan academy はAIを使用している。学習者がテストや動画でわからないところがあったら、AIが回答するのではなく、解答までの過程をステップバイステップで教えてくれる。ヒントを与えることで自ら答えを導くことを促すよう設計されている。また、小学生レベルから大学教養レベルまでの様々なコースが用意されている。自分の好奇心に従い、自分のペースで学習を進め易くなった。
また、ChatGPT などのAIの登場により、AIとも議論することができるようになった。現在は、AIは確率的に言葉を並べるのみであるため、一緒に「学問」をすることはまだ難しいように思える。だが、技術の進歩により、いつの日か可能になるであろう。
しかし、なぜ学問を行うのかという声が上がりそうだ。それこそ、AIが行なってくれるだろうと。確かに、AIは大量の学習を通して、人間と会話を行える次元にまでなった。それに今後いかなるスピードで、いかなる次元まで進化していくかは、計り知れない。それゆえにこそ、学問を行わなければならず、思考することを止めてはならない。学問をやめれば、それこそ多くの人が危惧しているAIに支配される社会になるだろう。
可能性として、AIはAI同士で会話をするようになるかもしれない。そのとき、AIは知性を持っているだろうか。人間を支配してしまうのだろうか。人類に終わりが来るのか。もしかすると、今ある知性は人間の特有のもので、AIの知性は未知の何かを持つかもしれない。現在ではそれを宣言することはできない。AIが進化して行くのは必然なので、たとえ、人間を超越したとしても、人間は対等に渡り合っていく必要がある。例えば、AI同士で会話を始めたTのなら、人間はその会話に加わっていかなければならない。つまり、「AIと人間の交際」を行っていく必要がある。
そのためには、人間は多量の知識が必要であり、また、知識を得る過程がなければ学問もできない。人間は議論を重ね未知の答えを思考するが、時には失敗をする。そして、その失敗を次に活かすことができる。これにより判断力が優れていく。この判断力がなければ、神の如くAIを信じ、全て従うようになるだろう。冒頭の言葉が脳裏をよぎる。それではならんと、福澤もきっと、AI時代を危惧するはずだ。しかし自信を持ってこう言うだろう。「 AI時代にも学問の本質的なところは変わらない。この時だからこそ取捨選択のための判断力が必要なのだ。そのために学問があるのだ」と。
人間やAIについて、福沢諭吉の思考を考察してきて、私がたどり着いた答えは、「文明の発達」、「AIとの共存」という二つの観点から判断力が大切だということだ。だからこそ、世の中で最も大切なのは人間交際であり、人間は互いに知能を高め、知性を豊かにしていくべきである。
交際をAIと共に行なっていくにも、教養と判断力を養うために学問は必須である。だから、AIが人間を凌駕する可能性のある時代において、現在行われている「教育」を、福澤のいう「学問」に変えなくてはならない。学ぶ者は、「教育を授かる者」から「学問を行う者」に変わらなくてはならない。AIとの共存により、AIと共に文明を創って行く。
(注1) Cellan-Jones, Rory.、『Stephen Hawking Warns Artificial Intelligence Could End Mankind』、BBC News、 www.bbc.com/news/technology-30290540、2004年12月2日
(注2) Browne, Ryan、 『Elon Musk Warns A.I. Could Create an “Immortal Dictator from Which We Can Never Escape』 CNBC、 www.cnbc.com/2018/04/06/elon-musk-warns-ai-could-create-immortal-dictator-in-documentary.html、 2018年4月6日
(注3)田坂広志『知性を磨く― 「スーパージェネラリスト」の時代』、光文社新書、2014年
(注4)福澤諭吉『文明論之概略. 巻之一』、dcollections.lib.keio.ac.jp/sites/all/libraries/uv/uv.php?archive=FKZ&id=F7-A23-01#?c=0&m=0&s=0&cv=60&r=0&z=-609.5928%2C0%2C4739.1855%2C2880、1875年
(注5)福澤諭吉、『學問ノスヽメ. 十二編』、https://dcollections.lib.keio.ac.jp/sites/all/libraries/uv/uv.php?archive=FKZ&id=F7-A15-12#?c=0&m=0&s=0&cv=4&r=0&z=-495.4985%2C0%2C4623.997%2C2810、1874年
(注6)福澤諭吉、『福翁自傳』、 https://dcollections.lib.keio.ac.jp/sites/all/libraries/uv/uv.php?archive=FKZ&id=F7-A52#?c=0&m=0&s=0&cv=89&r=0&z=-576.7753%2C0%2C4918.5505%2C2989、1899年
Ray Kurzweil、 『Ray Kurzweil: The Coming Singularity | Big Think 』、https://www.youtube.com/watch?v=1uIzS1uCOcE、2009年
大黒竜也、『芸術的創造は脳のどこから産まれるか? 』、 光文社新書、2020年
Khan, Sal、『Sal Khan: How AI Could Save (Not Destroy) Education』、www.ted.com/talks/sal_khan_how_ai_could_save_not_destroy_education?utm_campaign=tedspread&utm_medium=referral&utm_source=tedcomshare、2023年
丸山眞男、杉田敦『丸山眞男セレクション』、平凡社、2010年